ヤマハとトヨタが造り出した20世紀の宝物
●一号車の完成とレース活動
昭和40年8月トヨタ2000GT一号車が完成しました。10ヶ月で新 車開発ができたとトヨタの稲川常務は驚きましたが、YX-30・シ ルビア・日産2000GTの何れも1年以内にヤマハは作っていました。 その年のモーターショーには二号車が出品され大きな反響を呼びま したが、走らせるコースがありませんでした。230km/hのスポーツ カーが走れるコースはトヨタにすらなかったのです。この為、 走行試験の代わりにレースへの参加が繰り返され、アルミボディ も試されました。
●昭和41年5月 第3回日本グランプリ 3位入賞とリタイヤ ●昭和41年6月 鈴鹿1000km 優勝と2位入賞 ●昭和41年10月 谷田部で高速耐久トライアル 3個の世界記録と13個の国際記録 ●昭和42年3月 鈴鹿500km 優勝とリタイヤ ●昭和42年4月 富士24時間 優勝と2位入賞 ●昭和42年7月 富士1000km
優勝と4位 ●昭和42年10月 鈴鹿1000km 30位と事故とリタイヤ
レースで走り弱い部分を壊して見つけ対策する作業を繰り返し 熟成を重ねた結果、昭和42年5月にトヨタ2000Gは発売されました。 定価は237万円、設計者にも買えない車でした。
●二輪のヤマハに自動車部発足
昭和39年、40年にヤマハはMC2年連続世界GPメーカーチャン ピオンになりました。これよりレース責任者の長谷川氏は“世界” を体感して知っているとの理由から、川上社長より自動車部長の 名を受けました。自動車部は昭和41年1月に発足し,トヨタ2000GT 生産の為に、磐田工場が建てられました。
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